しま山清史はこんな人!
プロフィール
1971年2月9日生まれ。兵庫県議会議員 現職4期(須磨区)。公明党議員団所属。政務調査会長。元芦屋市職員、一般社団法人リア充ひょうご代表理事、一般社団法人ことばの道理事、兵庫県フットサル連盟顧問、阪神播磨建設廃棄物中間処理事業協同組合顧問。
昭和46年 | 神戸市生まれ |
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平成元年 | 兵庫県立鈴蘭台高等学校 卒業 |
平成7年 | 神戸商科大学 卒業 |
平成8年 | 芦屋市役所入所 |
第54,55代芦屋市職員労働組合執行委員長 | |
平成23年4月 | 兵庫県議会議員初当選 |
平成27年4月 | 兵庫県議会議員2期目当選 |
平成28年 | 健康福祉常任委員会副委員長 |
平成29年 | 決算特別委員会副委員長 |
平成29年 | 警察常任委員会委員長 |
NPO法人顧問 | |
兵庫県フットサル連盟顧問 | |
公明党兵庫県本部青年局長 | |
平成31年4月 | 兵庫県議会議員 3期目 当選 |
令和4年 | 警察常任委員会委員長 |
令和5年4月 | 兵庫県議会議員 4期目 当選 |
居住地 | 須磨区板宿町在住 |
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家族構成 | 妻と娘二人 |
趣味 | パーカッション演奏、フットサル、アウトドア、読書、映画 |
災害ボランティアで培った
現場第一主義
あの阪神淡路大震災、原付で救援物資の搬送に従事したのがボランティア活動の原点。その後、国内外の被災地でボランティア活動に従事。昨今の豪雨災害や台風災害の際には、避難所周りや災害現場に必ず足を運ぶ。現場第一主義。
小さな声をカタチに
芦屋市役所時代、福祉のケースワーカーとして勤務し、福祉を必要とする人々と数多く関わる。その中から生まれた政治信条が、「誰も置き去りにしない政治」~小さな声こそ、カタチにしなければならない~、との思いで、日々奮闘しています。
情熱と行動の人
数年前から毎年「須磨海岸での地引網事業」を開始する。資金集めから当日の運営まで企画し、児童養護施設の子供たちを招待した。情熱をもって、未来ある子供のために行動できる人。
My議員
しま山が目指す議員像は「私の議員」。困ったことがあれば、なんでも相談できる身近な議員。初当選以来、12年間で受けた相談件数は7000件を超え、悩みやお困りごとに寄り添い、数多くの実績を残す。
生い立ち
幼少時代―
世界に憧れる子ども時代。
ぼくが生まれたのは昭和46(1971)年。
自宅の裏には自然溢れる里山が広がっていて、そこで釣りや昆虫採集、探検隊ごっこをしたりと、なかなかワンパクな子どもだったようです。世界を股にかけるエンジニアの父が聞かせてくれる、異国情緒溢れる土産話が大好きで、その頃から「大人になったら、ぼくも世界中を旅して回るぞ!」という夢を描いていました。
学生時代―
サッカーに明け暮れる日々。
中学、高校、大学と大好きなサッカーに打ち込み、中学ではキャプテンも務めました。高校時代には試合中、右足首靭帯断裂という大ケガを負うも乗り越え、高校、大学でもチームの要として活躍し、部活動を通じて、チームプレーの大切さを学びました。
ギャップイヤー―
リュック一つで世界へ一人旅。
(ギャップイヤーとは大学の入学前や卒業してから就職するまでの間などを利用して、ボランティア活動や留学、旅などを通じて見聞を広めるために設けられた期間で英国で始まった習慣)大学4年間、サッカーをやりきった後、子どもの頃からの夢を叶えようと、アルバイトで貯めたお金で中南米・アフリカなど20数カ国を巡る一人旅へ。行きと帰りの飛行機チケットだけを用意し、宿も行程もノープラン。「地球の歩き方」を握りしめ、いざ冒険に出発。ノープランの一人旅だからこそ、いろんな人との出会いがあり、自分を見つめるいい機会に。カルチャーショックの連続でしたが、貧しくともたくましく生きる人々、楽しげに音楽を奏でる姿は世界共通で、そのときに出会ったさまざまなもの、アフリカの太鼓ジェンベもその一つ、が今のぼくを形づくっています。
就職活動―
人生初めての挫折と大震災。
旅から戻り、海外で働くことができる仕事をと就職活動を始めましたが上手くいかず、ぼくは人生初の大きな挫折を経験しました。
その後、外務省専門職という公務員試験があることを知り、「世界を舞台とする仕事がしたい」と受験することを決意します。一日10時間の勉強を毎日一年間、後にも先にも人生で一番勉強した時代だと想います。 そんなときに起きたのが、あの未曾有の大地震、阪神・淡路大震災でした。まさに受験勉強の真っ最中でしたが、ぼくは勉強を一時やめて災害救援のボランティア活動を始めました。このときの救援活動が後の海外での災害復興ボランティア活動などに結びつき、防災、危機管理の重要性を訴える今現在の活動の源となっています。
結果、外務省には就職できませんでしたが、倍率20倍ほどの難関を突破して、芦屋市役所に合格しました。あきらめずに挑戦すれば必ず結果が出る、そう実感した就職活動でした。
市役所時代―
苦しむ人々の目線に立って考える。
市役所では、生活保護受給者のケースワーカーとして、高齢者や障がい者、母子家庭、虐待などの問題に真正面から取り組みました。さまざまな問題に出会うなかで、何ができるのか。「一番大変な人の目線で、一番苦しんでいる人のために」、ぼくのライフワークとなるこの課題はこのときに生まれました。また、二期務めた労働組合の執行委員長として、労働問題に取り組んだ経験が、のちに過労死家族の会の方と共に取り組んだ「過労死等防止対策推進法」成立につながりました。
兵庫県議会議員―
そして、これから。
ぼくは芦屋市役所で14年間行政にたずさわり、福祉をはじめ、さまざまな行政課題に取り組んできました。そのなかで、声なき声を行政に反映させるためには、現場に出かけ、一人ひとりの悩みや夢に耳をかたむけ、その問題解決や夢実現に素早く丁寧に対応していくことを心掛けてきました。そして、その取り組みの延長線上に、生まれ育った大好きな神戸・須磨がさらに魅力ある街に生まれ変わることを願っています。スピード第一、現場第一で皆様と共に魅力ある須磨のミライを築いてまいります。